脳内模写

言葉で描ける考え事の断面。

皿洗いは脳に良いからみんなもやろう

僕は料理が苦手なのでシェアハウスや実家にいた頃はもっぱら皿洗いをやっていた。今も自宅では皿を洗ってる。食洗機を買うと人生が捗るとか巷では言われてるけど皿洗いは脳に良いと思ったので今回皆さんにも皿洗いの良さを伝えようと思う。

ここが良い!皿洗い!

箇条書きで良さをまとめる。

  • 計画性が身に付く
    • 何を洗うかを最初に決める
    • 洗い終わった後に置く場所を確認する
    • 洗うための場所が確保できるか確認する
    • どの順番で洗うかを決める
  • 自分の手を動かすと気持ちがいい
  • 物が綺麗になると嬉しい

こんなに嬉しいことが沢山!いいですね〜。

それではもう少し詳しく述べていく。

皿洗いで身に付く計画性

皿洗いって単純作業ではあるんだけど意外と頭を使う。漫然と洗うと、洗ったはいいけど置く場所に困るとか、既に洗い終わった食器が濡れてしまうとか、そもそも流し台が狭くて洗ってる途中でにっちもさっちもいかなくなるとか、いろんな問題が発生する。これらを避けるには何を使うのか、頭です。脳です。これが皿洗いが脳に良いという理由の一点目。良いね。

皿洗い中に感じる手応え

さて、頭を使って皿を洗い始めると気づくことがある。「なんか思ってたんと違う……」

どういうことか。いざ皿を洗ってみると重ねる順で洗いやすさやすすぎやすさが変わったり、先にすすぎたい物が奥の方に溜まってすすげなかったり、排水溝にお箸が落ちて嫌な気持ちになったり様々な計画外の事象が発生する。こういう実際に手を動かしてみて初めて経験することが脳に刺激を与えてくれる。これが皿洗いが脳に良いという理由の二点目。すごいね。

皿洗いを終えて気分爽快

とうとう計画し実践し皿を洗い終わった。するとそこには綺麗になった食器、整然と並んだ食器、すっきりと輝く食器があることだろう。台所も心なしか嬉しそうだ。こうして我々は次の食事にまた皿を使うことができる。皿洗いが身についた暁にはコンビニでもらってきた使い捨ての容器を消費するのではなく、毎日お気に入りの食器と食事を共にすることができる。これは食洗機を使ってもできることだけど自分で洗うことが大事だというのは先に述べた通り。さあ皿を洗おう。


ここまで読んでくださった皆さんはもうお皿を洗いたくなっていることでしょう。

たかが皿洗い、されど皿洗い。箸にも棒にもかからない話題ではあると思いつつ書き始めたら意外と筆が進んで驚いてる。毎日することだからこそ楽しく爽やかにより良い気持ちで臨みたいものである。

日常に彩りがありますように。

長い夜

一日が始まるのは朝ではなく夜だ。深夜零時から一日は始まりそして朝を迎える。日が昇るまでは暗いのだ。

我々人間は皆等しく泣き叫びながら生まれてくる。安寧な胎内にいた赤ん坊はある時突然、この世の苦楽に晒されるのだ。これが泣かずにいられるだろうか。

この世に生まれること自体が悲惨であるという考えを持つ人も少なくないが、それは長い夜の最中にいるからなんだろうかと考えることがある。

日が昇らねば朝は来ないが、一日の始まりと人生の決定的な違いはこの日を昇らせる役目が私や貴方にあるというところだ。これは責任では無く、人がどのように生きられるのかという問題だ。この世に生きるということは一方的に与えられた夜から光を見出すことなんだろう。

私や貴方の人生が穏やかに明けますように。

世界は腐ってるし人生は不可抗力だし生まれてきたくはなかったけど誰かが死ぬとそれは悲しい。この世界がますますダメな世界だという確信が深まってしまう。

氷の柱を眺めてる。全てが凍っている世界で立っているのは氷の柱だけで他は全てが氷の地面で凍っているのは当たりだから誰もそれを気にしなくて凍った地面と氷の柱と真っ黒な空があるだけの世界でそんなことを誰も気に留めないしそんなことを考えている場合ではない。氷を見つめているとその人も凍ってしまうのだ。

そんな中でも世界について考えてる物好きな人のことを僕は好きだ。 世界について考えずに生きている人のことも尊敬している。 ただ僕はここが嫌だから今すぐ早くここから出してほしい。

世界は腐ってるし人生は不可抗力だし生まれてきたくはなかったけど誰かが死ぬとそれは悲しい。この世界がますますダメな世界だという確信が深まってしまう。

氷の柱を眺めてる。全てが凍っている世界で立っているのは氷の柱だけで他は全てが氷の地面で凍っているのは当たりだから誰もそれを気にしなくて凍った地面と氷の柱と真っ黒な空があるだけの世界でそんなことを誰も気に留めないしそんなことを考えている場合ではない。氷を見つめているとその人も凍ってしまうのだ。

そんな中でも世界について考えてる物好きな人のことを僕は好きだ。 世界について考えずに生きている人のことも尊敬している。 ただ僕はここが嫌だから今すぐ早くここから出してほしい。

見える景色

僕が両眼から見る景色は多分全部右目のものなんだと思う。左目だけでフリック入力できないから。

おじいちゃんのお墓参りに行く前の箕面の橋も電車もあれも左目は見ていないんだろうな。もしかして彼女の顔も僕は右目でしか見ていない?違うと思う。彼女が左に立っている時もしっかり見ているからだ。いや、見ているのか?僕は人の顔を見るのが苦手だ。だから見ると思い見た時のことしか記憶に残ってない。しかし彼女の横顔を、左から見た左目から見た横顔の記憶は確かに覚えている。この左目だけで打ってる文章がいくら間違いだらけで右目の助けを得ていてもだ。

手には左利きと右利きがあるように左右の目にもどちらか片方が利き目であるらしい。それがなんだという話なんだが僕は自分が見ている景色をどう見ているかについて考えていたいのでまずはこの文章を書いた。これからも意識していこうと思う。

『魂がある』という仮定について

突然ですが僕の趣味は頭の中で色んなことの意味についてこねくり回して考えることです。

世の中には目に見えないものが沢山ある。心というものの現物を見た事のある人はいないし見えるものでも円という形は真の円などこの世には存在しないと言われるらしいし。円といえば逆にお金などは形があるけれど概念が本体だから紙幣やコイン自体を指してはいない。お金は形に囚われないので通帳の数字にもなるし電子化もされる。

書き出しが長くなってしまった。目に見えないものについて考えたことをつらつら述べる。

子供の頃はUFOや幽霊が実在するのかワクワクしながら雑誌などを読んでいたけれどいつしかあまり考えなくなった。今はまだその実在が判断ができるほど確かなものではないから保留しておくしかない。実在するのかわからないからといって空想で終わるのかはわからない。 そうこうしながら実在のわからないものについて考いるうちに、確かめる術は無いが空想でも予想でもない観念について、これは仮定として扱うのがいいと思い始めた。仮定というものは空想予想妄想などと混同されやすい気がするけれどこれらとは別のものだ。空想とか予想はそれが現実になるかが不確かなものだけど仮定は違う。仮定とは現実を認識するための補助線のように機能するものだ。

ところで僕の頭の中には魂と説明するのが一番しっくりくる感覚がある。例えば初対面の瞬間に仲が深まると直感した友人については「魂の形が似ていると思った」と表現している。また「それは僕の魂が許さない」という言い回しを使ったこともある。ここでいう魂とはあくまでも現実の事物を形容するために使う視点のようなものであって、そこが空想や妄想とは違うところである。しかし生前や死後の存在などを指す用法については仮定半分妄想半分なのではと思わなくもない。

だめだ、この文章を書き始めた時は仮定が空想や妄想とは区別できるものだと考えていたのにあやふやになってきた……。 最初は、何かを認識する助けになるものを仮定、現実と無関係に想像できるものを空想、という違いを考えていた。書いてるうちにこれ自体はそうだとは思うものの、ハッキリと線引きできない境目のない程度問題なのだと気づいてしまった。

話を逸らす。このように人類は区分の曖昧な概念について他者とのやり取りで確認もせずに扱えるらしい。が、僕にはこれが超能力のようだと感じられる。とにかく世の中にはあやふやな認識が飛び交っている。わからないことだらけだ。だからこうして愚にもつかない話をしている。 特に意味のない考え事をして辿り着いたのが結局人類は難しいというのもいつもの感想だった。しかし空想と空想ではないものについて考えるのは何か良いものだと思う。

このブログの表題である脳内模写という造語はこの記事のような営みを指しているので、何か考えたことをこれからはツイッターではなくこちらに書いていきたい。と言い出してからそろそろ十年ほど経ってしまったな……。

というわけでこの記事は終わりです。 読んでくれてありがとう。