脳内模写

言葉で描ける考え事の断面。

ぐっちょむという場所について

2009年にぐっちょむというハンドルネームでツイッターを始めてから14年が経った。今回は僕にとってぐっちょむとは何なのかということについて書こうと思う。

ぐっちょむとは何なのかを僕が説明するならばそれは一言で表すと場所である。ぐっちょむは場所なので色んな人が来たり去ったり集まったり顔を合わせたりする。休みに来る人もいれば疎遠になった昔馴染みと会うために再来する人もいる。また場所であるからには来る者を拒まず去る者を追わない。しかし場所であるからには雰囲気や特色も持っている。だけど何もしないということではない。そもそも僕は人間だからね。

例えばある人はツイッターを辞めたものの何年か経ってまたアカウントを作り直したがみんなの名前を忘れてたり転生や改名をして誰が誰だかわからなかったりツイッターのどこにいるのかわからないからまずはぐっちょむアカウントから探しに行くと言っていてそういう人が何人かいる。

これからもみんなが楽しくのんびりわいわいできる交流の場として存在していたいと思う。

というわけなのでみなさん末永くよろしくお願いします。

人生これからだなんて嘘ですねなどと言うために歳をとったわけではない

人生いつでもこれかららしい。これから子供を欲しいと思えどもとっくに35歳を過ぎてしまった。これからの人生もあるだろうがそれを考えると無邪気に子供を欲しがる歳でもなかろう。何が人生いつでもこれからだ。糞食らえ。なんてこと言うために生まれてきたわけでもなければ生きているわけでもない。とにかく嫌だ。諦めること。とにかく嫌だ。出来なかったこと。とにかく嫌だ。これからの人生。とにかく嫌だ。何もかも。とにかく全部が嫌なんだ。

他にも楽しいことはある。だから生きる。でもそれがなんだ?何の埋め合わせになる?埋め合わせるために生きているわけではないから僕は生きるがお前の僕のこのあのその過ぎ去った時間は二度と戻ってきやしません。どの?そんなのどこにあったんだろうね。どこにもないからここにもそこにもあそこにもありはしないのですが。

お願いだから年寄りにはまだ歳じゃないだなんて説教をしないでおくれ。もうたくさんだ。歳を取った僕は知っているから。若い君は知らないから。だからもうやめてくれ。それは君のための言葉であって相手に向ける言葉じゃない。じゃあ頑張って。僕も頑張るよ。

以上。おしまい。

静岡は本当に長いのか?

新幹線で西日本と東日本の間を移動する際にいつも思うこと、第一位……

「「静岡県、どんだけ長いんだ!」」

静岡県も自ら望んで東西に長くなったわけではないだろうし、それどころか静岡県にはのぞみが停まらない。 なのに時速300km弱で走り続けるのぞみですら、新横浜と名古屋を結ぶには約80分程度を要する。静岡県長すぎる問題。

……ん?

新横浜、名古屋……

もしかして神奈川県と愛知県も長いのでは???

本題

先述のとおり静岡県が長いと感じるのは濡れ衣かもしれないことが判明したので検証しよう!

実際に新幹線が静岡県内を走る距離は何キロ?

新幹線が静岡県内を走る距離の定義を以下として長さを求めてみよう。

  • 静岡県内の新幹線の駅のうち、最も神奈川県側と最も愛知県側に位置する駅間の、実キロを本項での静岡県の長さとする。
  • 厳密な県境から県境までの距離とは異なるが今回は上記の計測方法を採る。

そして上記の定義に基づいた実際の値はWikipediaによると、

  • 最も神奈川県側の熱海駅は東京駅から実キロで95.4キロ
  • 最も愛知県側の浜松駅は東京駅からの実キロで238.9キロ
  • よって新幹線が静岡県内を走る距離は238.9キロ - 95.4キロ = 143.5キロ

新幹線が静岡県内を走る距離はおよそ143.5キロ!!!

って大きいのか……?

静岡県の距離(概算)はわかった。わかったがしかしわからない、どれくらい大きいのか……。 というわけで、今度は他の区間の距離と静岡県を比べてみよう。

静岡県vs新横浜名古屋間vs東京名古屋間vs東京新大阪間

3都市圏間が静岡に挑戦だ! 計算の手順は省くぜ!

まずは新横浜名古屋間! 新横浜名古屋駅間は316.5キロ!

……ん?

静岡県内の距離よりかなり長くないか……?

どうやら僕が「静岡長えなぁ」と思っていた距離の半分以上が神奈川県と愛知県で占められていたようです。

静岡にはとんだ濡れ衣を着せてしまった……。 静岡の皆さま、すみませんでした。

3都市圏と一気に戦わせるのは煽りすぎた。意外と小さいんだな(?)、静岡。そして神奈川と愛知の区間も結構長いんだな。そりゃ時速555kmで走るリニア新幹線も欲しくなるものだ。リニア中央新幹線が開通すると現在80分必要な品川名古屋間が40分で済むらしい。半分!これは便利。

話を戻します。

東京名古屋間は342.0キロなので静岡県内の約2.4倍!

東京新大阪間は515.4キロなので約3.6倍!

というわけで、

いかがでしたでしょうか?

ブログ人生で初めて「というわけでいかがでしたでしょうか」と言った気がする。嬉しい。

しかし煽り記事を書いたつもりだったのに尻すぼみな結果が出てしまい、あんまり扇動的な構成で記事を書くものではないな……と思いました。

結果として静岡県はそこまで長くないようです。みんな長くてみんな良い(?)。

そして最後に、記事中に改善点や不備や誤記などがありましたらコメントでお知らせ下さると幸いです。もしくはTwitterアカウントへのリプライやDMでお伝え頂ければと思います。

お読みいただきありがとうございました。

後ろ向きに生きるのは嫌だし死ぬのは無理

自殺はしない。生きる。でもどうやって。知らない。死ななければ生きる。でもどうやって。どうもしない。死なないために必要なことを全部考える。無理。死にたい。でも生きるために必要なことは死なないために必要なことでこれを考えるのはとても苦しいし厳しいしつらいし嫌だけど、死なないために必要なことを考えないと死んでしまう。僕が生きてるか死んでるかなんて僕にとってはどうでもいいことなのに僕を知ってる人のうち死ぬと悲しむ人がいるのは僕が他の友達に対しても死ぬと悲しいと思ってるから多分そう。どうかな。本当は死んだ方がいいって思ってる奴たちが寄り集まって生きた方が良いよって言い合ってるだけかもしれない。それこそスタートアップのビジネスとか言ってる奴らがお互いの事業やサービスを褒め合ってるみたいに。あいつらは前向きな気持ちを奮い立たせるために多分集まってるんだと思う。じゃあそれを揶揄する僕は何かと思った時に自分は後ろ向きの気持ちをお互いで抑え合ってるだけなんじゃないかと思えてきた。これはただの独り言のつもりだけど一緒に死んでくれる人がいたら心強いと思うし一緒に生きたいと言ってくれる人がいたら重く感じてしまうしなんていうか僕はそういう人間なんだと思う。繰り返す。自殺はしない。だけど僕は元々が後ろ向きな人間で、少なくとも前向きな自分は好きじゃない。自分が好きじゃない人間がたまに自分を好きになったり前向きになったりしてまた自分が好きじゃないって繰り返すのに付き合う周りの人は本当に大変だと思う。僕はそういうややこしい人間だ。だから自分が好きじゃないという人間を貫いた方が多分良いと思う。だから後ろ向きに生きる。でも死なない。後ろ向きに生きるために必要なことを考えてそれは嫌だし苦しいししんどいけどでも本当に僕に必要なことは多分後ろ向きに生きて死なず前向きにもならず生きて死なないことだと思う。

つづく……

自分を戒めるためのメモ

生きて生活するのがまず一番大事。でも何をしても良いわけではない。 例えば「生活を回すために……」と言って理屈を捏ねるのが一番タチが悪い。

生活というのは具体的には掃除洗濯風呂食事。あと睡眠。それができたら次は仕事。この順番でやるのが大事。

仕事はしないと生きていけないので仕事も生活のうちだけど、これも「仕事をする調子を整えるために……」などと言って正当化してはいけない。

そしてまずは何もしないこと。これが基本。より良く何かをするはその次。 生活をする。そして仕事をする。よく間違うのが仕事はできてるが生活はできていない状態。これはかなりタチが悪い。 「仕事のために……」と「生活のために……」が循環論法になってはいけない。

まずは掃除洗濯風呂食事。あと睡眠。それができたら次は仕事。 そしてびっくり!その次にすることはありません。まずは何もしないことをやる。 生活と仕事が回り一定のペースで貯金ができて初めて他の事が出来るようになる。

あと反省は自分を傷つけたりヤケクソになるためにするものでは無い。何もせずに生活と仕事をするために必要なのが反省。余計なことをせずに済むためにするのが反省。そして生きて生活をする。それも長続きするやつ。最高の生活とか面白い生活とかは僕にとっては危険なので安定と継続を目指す。

未来の僕へ。困ったらこれを読め!!! 多分忘れてると思う。でも思い出せ。

以上。

なんで僕たちは生きてるの

僕は生きてるし君も生きてるけどそれってなんで?なんで生きてるのかって言うとそれは生まれたから。単純な理由だよね。そんなので納得できるわけないじゃん。僕らが生まれた理由を問う時それは僕らが生きる理由を問う時でつまりどこから来たのではなくどこに行くのかを当てるわk。じゃあどこに行くの?それは宿命。背負った運命が担ってる。君が虐待家庭に生まれたら僕が進学で落ちぶれたから彼が高校の悪い先輩に唆されたから彼女が変なドラッグに溺れたからこの人生が始まってそれが終わりを決めている。どこに向かうかはどこから来たかが既に決めている。僕は死にたい。それは多分もう生まれてそれだけで満足できたからだと思う。こんなんじゃ死ねないっていうのはまだ満足できてないからだと思う。だから精一杯この世の中を殴ろう。何かなりたい姿があったはずだ。綺麗な光だったり薄汚い影だったり何かに憧れてた時があってそれはどうしようもなく愛おしい人の姿だと思う。なりたくてもなれなかった自分、そこに向かおうとする気持ちそれ自体が実は行き着いた先より美しい姿だったのかもしれない。とにかく生きろ。そして死ぬ。