脳内模写

言葉で描ける考え事の断面。

『魂がある』という仮定について

突然ですが僕の趣味は頭の中で色んなことの意味についてこねくり回して考えることです。

世の中には目に見えないものが沢山ある。心というものの現物を見た事のある人はいないし見えるものでも円という形は真の円などこの世には存在しないと言われるらしいし。円といえば逆にお金などは形があるけれど概念が本体だから紙幣やコイン自体を指してはいない。お金は形に囚われないので通帳の数字にもなるし電子化もされる。

書き出しが長くなってしまった。目に見えないものについて考えたことをつらつら述べる。

子供の頃はUFOや幽霊が実在するのかワクワクしながら雑誌などを読んでいたけれどいつしかあまり考えなくなった。今はまだその実在が判断ができるほど確かなものではないから保留しておくしかない。実在するのかわからないからといって空想で終わるのかはわからない。 そうこうしながら実在のわからないものについて考いるうちに、確かめる術は無いが空想でも予想でもない観念について、これは仮定として扱うのがいいと思い始めた。仮定というものは空想予想妄想などと混同されやすい気がするけれどこれらとは別のものだ。空想とか予想はそれが現実になるかが不確かなものだけど仮定は違う。仮定とは現実を認識するための補助線のように機能するものだ。

ところで僕の頭の中には魂と説明するのが一番しっくりくる感覚がある。例えば初対面の瞬間に仲が深まると直感した友人については「魂の形が似ていると思った」と表現している。また「それは僕の魂が許さない」という言い回しを使ったこともある。ここでいう魂とはあくまでも現実の事物を形容するために使う視点のようなものであって、そこが空想や妄想とは違うところである。しかし生前や死後の存在などを指す用法については仮定半分妄想半分なのではと思わなくもない。

だめだ、この文章を書き始めた時は仮定が空想や妄想とは区別できるものだと考えていたのにあやふやになってきた……。 最初は、何かを認識する助けになるものを仮定、現実と無関係に想像できるものを空想、という違いを考えていた。書いてるうちにこれ自体はそうだとは思うものの、ハッキリと線引きできない境目のない程度問題なのだと気づいてしまった。

話を逸らす。このように人類は区分の曖昧な概念について他者とのやり取りで確認もせずに扱えるらしい。が、僕にはこれが超能力のようだと感じられる。とにかく世の中にはあやふやな認識が飛び交っている。わからないことだらけだ。だからこうして愚にもつかない話をしている。 特に意味のない考え事をして辿り着いたのが結局人類は難しいというのもいつもの感想だった。しかし空想と空想ではないものについて考えるのは何か良いものだと思う。

このブログの表題である脳内模写という造語はこの記事のような営みを指しているので、何か考えたことをこれからはツイッターではなくこちらに書いていきたい。と言い出してからそろそろ十年ほど経ってしまったな……。

というわけでこの記事は終わりです。 読んでくれてありがとう。