脳内模写

言葉で描ける考え事の断面。

昨日の僕と鬱のときの僕へ。

とにかくつらくなったらこのページを見ろ!

昨日までは10日間出社できず毎日16時間以上寝て東京の友達とは離れて遠くに住んでる現状を嘆いてたけど今日は出社してそもそも10月中に2日しか出社しなかった僕を受け入れてくてれる後輩と友達たちの会社があって帰りに酒飲んでも4000円の出費以上はせず粗相もせず23時半より前に家に帰って絵日記代わりの落書き漫画を書いて楽しくツイッター見てツイキャスに行ったりしてまだこれを書いてるのは2時半過ぎで悪くないもんだなと思ってるんだから、人生はそもそもつらいものだし明日起きて明後日起きてその次起きたらもう脱力したり結婚の見込みが無いから実家を相続しようと全てが無に帰すのかと思ったりするだろうけどそのたびにこのページを見ろ!

忘れるな!

実家に出戻りしてからの話

2018年の4月末に東京を去った。6年半のシェアハウス生活が終わった。

6年半で3軒のシェアハウスで暮らした。ギークハウス水道橋、妖怪ハウス、サウ、他にも何週間か住んだり居候したりした。とにかく集住しながら東京に6年半暮らした。大学の在学期間より小学校より長い期間、東京で気の合う奴らと過ごした。

上京して最初のうちは全然ダメで、去る時も全然ダメで、結局全然ダメなまま実家に戻った僕だけど東京を離れる時には何故か婚約者がいて年収は120万程度で月収だと40万程度だった。でもすぐに出社できなくなるから全然ダメで、メンタルがとても弱くてすぐ根を上げてしまう僕はその当時の婚約者に限らず常に恋人の存在を精神の支えにしていた。そもそも僕は常に死んでしまいたいと思っている人間なので死なないように友達を作ろうと19歳の時に思ったのだ。自分が死んで悲しむ人が少しでも増えれば自殺を思いとどまるだろうと臆病な考え方で友達を作るように励んだ。

18歳までほとんど友達のいなかった僕だったけど東京から実家に戻る時には「ぐっちょむは顔が広いからな」と惜しんでもらえるくらいになった。そして東京を去って一年後には結婚したいと言っていた婚約者とは今年の4月に別れて今は無軌道な生活を送っている。どこに向かって行けば良いのか自分ではわからない。ただ死ぬことだけは今まで外していた選択肢の中からこちらを睨んでいる。

実家に帰って安定して家庭を持って……などと考えていたけどやっぱり甘かった。少し何かへこたれてしまうと0か100かで考えるこの頭が悪い。そしてすぐ扇動的で刺激的な方へ転んでしまう。なんとなしにヤケクソでただ破滅できればいいなと思うけど死ぬのは怖いという日が続いてる。僕はどうすればいいんだろうなあ……。

なんだかわからないけど人生は続いて行く。このなんだかわからなさがたまらなく苦痛で仕方ない。なんなんだ。なんなのかわかりたい。ただ続いて行くのが人生なのか?誰か教えてほしい。生きていればそれでいいと僕もついつい他人に言うがそんなことは無い。生きているだけでつらいんだ。

来週くらいには前向きな考えに変わっていますように、と自分をなだめて毎日寝ています。前向きになっていますように。

破滅してしまう僕たちは

僕や僕の周りの人たちは生きるのが下手くそである。

下手なんてもんじゃない。時には生きられず死ぬ友人もいる。「どうして下手なのか、なんでもっと上手くやれないのか肝心なところでつまずくのか終わっちゃうのか進めないのか」そんなことをぐるぐると、今朝考えていた。それは、きっとこうなんだろうという思いつきからこんなツイートを書いた。



どうしてもこうしても上手に生きられないもどかしい友人たちのみんなというわけではないけれども、下手な人たちには緩やかにバレないようにと「死」が僕たちを引き込もうとしているのかもしれない。死神が憑いているとも言えようか。

しかし、やはり、単純に表現すると、「向いていない」という一言に尽きるのだと思う。
生きることそれ自体に不安を抱えてしまうから、僕はそれをぶち壊して台無しにしたくなって、時限爆弾を仕掛けるように自分の落ち度の貯金を増やそうとしてしまう。いつか溢れて死ねれば、勝手に、自動的に、意思とは関係なく、抗えず、しょうがなく、そういうふうな段取りを組めれば、なんていうか自由になれるのかもしれない。

しかしそんな馬鹿な話であればたまったものではない。
生きているからには生きなくちゃいけない。こんな最悪な理屈で動く宇宙に生まれて本当に嫌な気分だけど、ここでは楽しもうと思えば楽しいことができてしまうから、だから楽しむしか道は無いんだ。探して楽しむのか座して死ぬのか、その二択だ。

だから、生きている限りはどうか楽しく笑って暮らせるように、大切な人たちがそうであるよう願ってやみません。

どうか僕自身が誰かのそれの妨げになっていませんように。

追記。
文章の流れがめちゃくちゃで、話の対象が全体を通すと噛み合っていませんがご容赦ください。

友人たちが死んでいくということ

一昨年に友達が死んだ。去年にも死んだ。今年も死んだ。夏に死んだ。僕を慕ってくれていた友達たち。
何してもいいから死ぬのだけはやめてくれよ。

友達が死んでいつも思うのは全く慣れやしないということ。三人死んでも、一人の死は三分の一にはならない。一人一人が三人死ぬ。三倍だ。楽しかった思い出も申し訳ない出来事も、三倍だ。そして彼らとそれはもう話せない。何か楽しいことがあっても呼べやしない。面白いことを見せられもしない。ただ単に淋しい。いないことが淋しい。あいつがいれば、あいつがいれば、もっと何か、何でも、たくさんできたのに、ただ、そう思う。

僕も死にたいと常々思っているので責めようと思わない。「ご苦労様」としか言えない。人が死ぬのは不幸だ。その先の余生に何も見えなくなるのだろうかと僕は思う。満足して死んでくれていればいい。けれど彼らの最期の状況を聞くと本意だったとは思えない。虚しさが募る。

とにかく死なないでほしい。とにかく死なないでほしい。

僕は、満足して死にたい。人生に後悔が無いと思って生きているから。
それが自殺であっても。

お願いですからここから出してください

 ここというのがどこなのかを説明するのは難しい。この状況でも実際の居場所でも無い。しいて言えば自分自身という存在から解放されたいというような気分。