脳内模写

言葉で描ける考え事の断面。

人間であること、生きてくこと、を少しだけ前向きに考える方法、だなんて暴力だ笑わせるな

 人間をやるのは煩わしい。人生も煩わしい。嫌なことや面倒なことだらけだ。食べないとおなかが減る。お風呂に入らないと身体は汚れる。出かけるのも何をするのも面倒臭い。でも、食べれておなかがふくらめば気分が良くなる。お風呂に入れば気持ちがすっきりする。悪いことがあるから、良いことが良いのだと思える。そう考えれば人間も人生も悪くないかなって思える。
 人生の煩わしさを感じていた僕が「全知全能になりたい」と言ったら友達がこう答えた。「そんなの楽しくないじゃん」その通りだと思う。思っていることがそのまま叶ってしまえばそうする意味なんて無くなってしまう。分からないから不安だけれど分からないから楽しいんだ。出来ないからもどかしいけどもどかしいから何とかしたいんだ。だからそれが人生の面白さや楽しさなんだと思う。

 でもね、これって暴力なんですよね。うつ病の人にこんなこと言っても、その人の考え方を否定するようなものなのかなって。だって、前向きに考えることが理屈では解っても気持ちが付いてこない。そんな人に綺麗事をぶつけて何になる?喩えとして適切かは分からないけれど、自転車はペダルを漕いでハンドルでバランスを取る、と言葉で説明できても実際に乗るとなると話は別になる。そんなものなのかな、と思います。人生が楽しくない人に人生って楽しいよなんて言ってみろ。それこそ暴力だ。その人は楽しくない虚しいつまらない人生を世界を生きているんだ。それを否定するんだぞ。そんなことを僕はしているのかもしれないし、僕がつらいときは前向きに考えようと言ってくる人たち全員に殺意が湧いた。親切なのは分かっている。優しさなのは分かっている。でもそれが自分を苦しめて、そんな自分がまたたまらなく嫌になる。そんなことが誰を幸せにするのかと思うけど、本人にもどうしようもない苦しみなんだ。
 だから、僕に出来るのは、僕が楽しむのはそれはそれでいいのだと自分に言い聞かせて、だけどそれを人に強要したり、見たくもない人に見せたり聞きたくもない人に話さないよう、その人を突き放すような否定で殴りつけないよう、でもその気遣いが高慢に映らないよう、そうするしか無い。

 つらい人に、心が疲れきっている人に接するのは本当に難しい。だからってそんな人たちを避けるようなことはしたくないが、でも敢えて接することも無い。自分の近く、自分を思ってくれる人が苦しんでいる時にその人が望む手を差し伸べられればそれでよくって、自分の目に映るからと言ってそんな人に善人のツラを見せつける必要は無い。

 何を言いたいのかちょっと分からなくなってきたけど、とにかく僕は誰も不快にしたくないし、誰からも不快にされたくない。ただそれだけです。そして少なくとも僕は、つらいときでもどんなときでも、その人が心からの親切さで接してくれているのであれば、それを跳ね除けるようなことはしたくない、ただそれだけです。