脳内模写

言葉で描ける考え事の断面。

水の奴隷 完結編 急

 朝日が昇ったのでサフル達は小山から顔を覗かせた。どうやら追っ手はまだ来ていないらしい。白い荒野は死んだように静かでごうごうと風の音が聞こえるだけであった。あたりは一面真っ白で、まるで死後の世界のようだ。もしかすると一行はもう死んでいるのかもしれない。しかしここにはまだ生きている者と、もう死んでいる者がいる。この事実がサフル達を現実に引き戻した。ここに来るまでに何名の者が犠牲になったか分からない。彼らの遺志を無駄にせぬ為にも進まねばならない。しかし白い荒野の広さは一行を不安へと突き落とすのに充分であった。進めど進めど同じ風景が繰り返される。最初は盛られていた白い小山も地平線の彼方へ消えてしまった。幸いだったのは、ここがどうやら谷であったという事だ。視界の遠くに霞んだ山々が見える。何故だか分からないが一行は荒野の開けている方向に導かれているような気がしてきた。

 そろそろ日が沈もうという時、小島のような岩山が目に入った。一行が辿り着くと、そこには洞窟とかつて人が使ったのであろう焚き火の跡が残されていた。ユヌスが言った。

「今日はこの中で休む事にしよう。日も暮れる。幸い追っ手はまだ見えない。」

「そうだな。しかし明日はどうする?このまま進んでも良いのか?あの山々の何れかを越えればどこか人の住める土地にたどり着けるのではあるまいか。」

古い役人の一人が答えた。一同は考えた。自分達の進む先に何があるのか。この道は本当に正しいものなのか。いっそ家族と一緒に死ねれば良かったと言い出す者まで現れた。皆の不安は限界に達していた。サフルが言った。

「伝令の残した言葉を忘れたわけではあるまいな。我らは進まねばならぬ。我らの今の状況を考えてみろ。傷を負った者も多くいる中で山を超えられようか。この先に道が開けているのは一目で明らかでは無いか。皆で歩もう。」

「では怪我人だけ置いて進めば良いでは無いか。我ら全員が野垂れ死にしても構わぬと言うのか?一人でも生き残れる道を探すべきではあるまいか。」

古い役人の言葉に皆は動揺した。流石に言い過ぎたと彼は詫びてこの日は眠る事にした。

 また一夜が明けて、何人かがこの岩山の上に登り周囲を見渡してみる事にした。遠くから見た時は小島のようであったが、それなりの山容である。登れば何か見えるかもしれない。サフルと古い役人と奴隷の三人が山を登り始めた。日の射す所で見ると人が登れそうな道筋があったので三人はそれに従った。岩山の上から眺めるとかの国の役場であろう岩山が目に入った。地平線の底に沈んだ役場がまた姿を現したので三人は複雑な表情を浮かべた。追っ手の姿が見えないのが救いだ。反対の方向を見ると地の果てに何かが見えた。何が見えたのかは分からないが、荒野では無い何かがある。三人ともが異なる見解を述べたので結局それが何であるかは定かにならなかった。岩山を下った三人は皆と歩き出した。丸一日歩いて行けばその何かに出会えるのだ。これだけが彼らの希望であった。

……………………………………………………

 サフル達がかの国を捨ててから季節が一巡りしようとしていた。彼らは新しく辿り着いた土地で再び平穏な暮らしを始めたのだ。結局あの時に彼らが見た物は森であった。かの国には森の様に密集して木々の生い茂る事が無かったので見当が付かなかったのだ。森で暮らす人々はかの国から逃げ延びた人々の方来に驚いた。白い荒野の先は森の民の信仰で死者の国とされており、そこから現れたかの国の人々は怨霊であると思われたのだ。実際、彼らの身なりは亡霊の如く朽ち果てた物であったし無理もない。始め、言葉は通じなかったが森の民はすぐにかの国の人々を手厚く介抱した。彼らには死者を敬う習慣があったのでそれが幸いしたのだ。

 サフル達がかの国を捨ててから季節が一巡りしようとしていた。サフルの妻の腹は大きく膨らみ待望の第二子が生まれようとしていた。サフルの家族は幸せを噛み締めていた。あの動乱を辛くも生き延び、一家全員がこうして再び平穏な暮らしを取り戻した上に新たな命が生まれようとしている。サフルは以前、文字を覚えた経験を元に森の民の言葉をいち早く覚える事が出来た。そのため、森の民とかの国の人々との仲立ちをして暮らしていたのだ。森の民はサフル達がただの人間である事を申し出ても辿り着いた頃と同様に暖かく接してくれていた。妻が産気づいたのでサフルは産婆を呼んだ。