脳内模写

言葉で描ける考え事の断面。

清浄と汚濁、俺と人間

去る者を追ってはならぬ。去る気が失せるような居心地を提供せよ。

来週火曜は佐用町長とマスコミに佐用学生連絡協議会のプレゼン。学生が継続的に価値を創造し発信できる団体作りに向けての第一歩である。

田舎は家も土地も広い。加えて佐用若洲集落は人口がゼロ人なので、バンドの練習などにはもってこいである。

昨日は子供環境フォーラムの方、佐用町でまちづくりに携わってる方、三田や神戸で飲食店を経営する社長さんたちと飲んだ。いずれの人も口を酸っぱくして、突出した一部の人間によるマニアックな取り組みよりも、広く大勢の人に受け入れられる簡単な取り組みが重要だとおっしゃっていた。

一人の人間が徹底的に生活を切り詰めて環境のために節約するよりも、何百人もの人間が少しだけ意識してゴミを減らしたりする方がよっぽど効果的なのである。

俺は自分がいなくなっても残って続いてくれるような物を作りたい。次の世代が継がなくては俺の取り組みは意味をなさない。そのためには組織や制度をしっかり作る必要がある。考えなくてもある程度の事が運ぶように自動化するのだ。そして余力をより創造的な活動に費やす。

時にシステムは暴走する。人間がシステムに乗るのではなく、人の上にシステムは成り立つ物なのだ。考えなくてもシステムは動くが、人の手を離れたシステムは最早怪物なのである。まだ人間の時代は終わらない。

システムは硬直的である。それに対して人は柔軟。言わば骨と筋肉の関係である。両方が備わって初めて運動できるのだ。

人間にはシステムタイプと共感タイプがいる。前者と後者のミックスされた組織がこれからの時代には必要である。

現代人は仮面を被って生きている。あらゆる場面で何らかの役割を演じる。それは思考を省力化したり他者の予測可能性を上げる。しかし仮面の下に残された真価を発揮するためには仮面が必要なのだ。定型化されたものがあるから例外に価値が生まれる。

ただのノイズは音楽足り得ない。単調な音の繰り返しは拍である。拍にある程度規則化されつつもカオスを秘めたた旋律を伴って初めて息をのむ音楽は生まれる。

社会は音楽である。規則化されたリズムを脈打つシステムがあり、その上に創造的なメロディーが流れている。

あまり人を馬鹿にしない方が良い。各々の視野の届く範囲や視線が違うだけで、その中に見える一番良い答えを人は選んでいる。愚かに見える人でもその人なりに最適解を求めている。ただ、他人からは当たり前に見える物がその人には見えんだけや。

様々なパラメータの中から最適値を探すのが生命の本質である。人間には扱えるパラメータが膨大に存在するので座標軸が無数に生まれる。その様な複雑次元の中で我々は生きている。

人物金知を適材適所に運ぶのが人間知性の役目である。他人に見えぬ物、持てぬ物、知れぬ物、扱える物を提供する事が使命であり、それらは欲する人と巡り会った時に仕事となり得る。

コンピューターが不確かさを持つときが技術的特異点やろうな。システムは現在人の手によるエラーが無いと成立せんけど、この人手が失われた時…いや、やっぱり人類の精神の統一された時がシンギュラリティか?やっぱり特異点だけあってそこから先が見えん。


分かった!今の俺はこの世の全てが分かってるんじゃなくて、俺の脳みそでも処理可能なレベルまで視野が狭まってるだけなんや。つまり何一つ分かっとらん。